「馬を水辺に連れていくことはできるが水を飲ませることはできない」という諺を皆さん、ご存知でしょうか?水辺に馬を連れていくことは自分の仕事(課題)であったとしても、水辺で馬が水を飲むかどうかは馬の仕事(課題)です。さらにいうと、馬が水を飲まなくて、命に係わることで自分が困るのであれば、馬が死ぬのは馬の課題ですが、それで自分が生計を立てられずに困るなら、その部分に関しては、自分の課題ということになります。
課題の分離というのは、「このことは一体誰が考えるべき事柄、課題、仕事なのか」という視点から、自分の課題、他人の課題を明確にしていくことにあります。水辺まで連れていくのは自分の課題であっても、実際に水を飲むかは相手(馬)が決めることであり、自分が干渉することではない、ということを意味しています。これがまさに「課題の分離」です。馬が水を飲むかは、馬が決めることです。自分の課題と相手の課題を分離していないと、馬が水を飲まなくてぷりぷり怒るかもしれません。
どちらの課題かわからない場合は最終的に誰の課題であるかを考えてみてください。例えば、こんな例があります。
①子供の成績が悪くて怒る親
②相手が自分の期待に応えてくれなくて怒る人
①の場合、最終的に責任をとらないといけないのは誰でしょう?子供ですよね。自分の人生はどうなるかは子供の問題であり、親の問題ではありません。親が子供の問題をあたかも自分の問題のように勘違いしている例です。
②の場合、最終的に責任をとらないといけないのは誰でしょう?自分ですよね。自分が期待に応えない相手に責任を取らせようとする限りは問題解決は起こりませんね。
さて、ストレスという観点からこの問題を観た時、①は、他者への「過剰適応」が、②は被害者の立場をとろうとすることが、自分のストレスの原因になっていると気づきませんか?①の過剰適応は結構曲者で、他者への貢献という感覚(本当はしてあげているという上から目線)でやっていることが多いので、自分が悪いという感覚は起きにくく、他者を責めがちになる傾向があります。気づかないと永遠、過剰適応によるストレスの泥沼にはまりますので本当に要注意です。